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2020-11-03

ドイツのライフセービングのポジティブなゆるさ その1

 ライフセービング競技がオリンピック公開競技だった[1]ことは知られていない。パリで1900年に行なわれた第2回オリンピックでのことだ。
 競技は3部門、消火ポンプ操作部門、軍隊と市民のファーストエイド部門、そして水上・水中部門があった。
 水上・水中部門は、セーヌ川に設置された長さ300m、幅50mの会場で、6月21日の土曜日から23日の月曜日まで、3日間行われた。
 水上・水中部門は、ボート9種目、水底の救助用具2種目、水面の救助用具(浮具)2種目、救助泳4種目、合わせて16種目があった。
 参加したのはフランスとイギリスの2か国、23チーム。地元フランスからは21チーム1350人。フランス救急隊、海洋救助隊などプロらしいチームもあった。イギリスからはロンドンのライフセービング協会とグラスゴーのヒューメイン協会の2チーム50人。
 ライフセービング協会(現ロイヤルライフセービング協会)の創始者の一人であるウィリアム・ヘンリー(1859-1928)も競技に出場した。

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 主にドイツとスイスで、それとスウェーデンとベルギーで少し、合わせて約1年半、現地のライフセービングに足を突っ込んだ。そのことを少しずつ書いていく。

 ライフセービングは、ドイツ語でLebensrettung、ライフセーバーは救助泳者 Rettungsschwimmer という。
 ドイツには世界最大のライフセービング組織、ドイツライフセービング協会 DLRG がある。会員574,000人(2020)[2]。ドイツの人口を8300万人とすると、145人に1人が会員である。ライフセービングの地域組織は約2100か所、人口4万人に1つある。ドイツには約45,000の教会があり、集落に1つ教会があると仮定すると、21集落に1つのDLRGの地域組織がある。
 またDLRG以外に、ドイツ赤十字水上部門 DRK WaWa も同じような活動をしている。他にはASB(Arbeiter-Samariter-Bund)の水上部門もある。

 DLRGやDRK WaWaの地域単位の日常的な活動は、分かりやすく言うと、週に1回、平日の夕方に、公共プールで水泳のゆるい「トレーニング」を行い、大人は練習の帰りに地元の行きつけの店で一杯飲むことだ。
 ゆるいというのは、地域クラブがゆるいのに加えて、日本とは水泳の「トレーニング」の考え方が違うから。
 ヨーロッパで概ね「泳げる」の基準は、背が立たない深いプールに飛び込み、いったん水没して浮き上がり、水面をプールの対岸まで25m移動できること。多くの国では最初に平泳ぎを教える。形のきれいさにはこだわらない。泳げるようになるまでの段階を教育、泳げるようになった後の段階をトレーニングという。背泳ぎやクロールを教わるのは、トレーニングが始まってから。日本の感覚では、4種目が泳げるようになって競泳に足を踏み入れるところからトレーニングが始まるので、それに比べると入り口のハードルが低く、技術的な幅が広い。そのためゆるく見える。
 技術的に幅が広いので、DLRGやDRK WaWaのトレーニングは水泳クラブと大差ないと個人的に思っている。違いが見えるのは、それなりに上達してから。
 日常のトレーニングに参加するのは、圧倒的に子どもが多い。内容は、日本でいう水泳教室だ。子どもの練習が終わった後に、大人の練習がある。大人は仕事が終わってから来る。多くは平泳ぎ、たまにクロールで、休み休みゆっくり泳ぎ、終わったら一杯飲みに行く。飲みだけ来る人もいる。

続きは後日。

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 この記事が、ドイツ文化に関心があってドイツ語を学ぼうとしている人、これからドイツへ行こうとしている人、あるいはスポーツに関心があって他国の状況を見るためにドイツへも行こうとしている人に、いくらかでも参考になりますように。


出典
[1] RAPPORTS : CONCOURS INTERNATIONAUX D'EXERCICES PHYSIQUES ET DE SPORTS (IMPRIMERIE NATIONALE PARIS, 1901)
[2] "DLRG: Mitgliederzahl bis 2020", statista, 25 Nov 2020

2012-05-06

がんばろう東北!


遠野から来たというおじさんに尋ねられた。「この辺のこと詳しい?カーナビで橋があることになってるんだけど。あ、これのこと?!」
以前の場所に町が再建されることはない。でも、この橋の向こうにあった人々の生活が1日も早く元に戻るよう祈ろう。がんばろう東北!

【欲求】★★★レベル3
ちょうど1年前、避難所の運営を手伝って以来、被災地を再訪した。自分にできることは何だろう。

2012-05-02

ダーレ・オーエンの死を悼む

昨日彼が亡くなる以前から、ノルウェーの水泳選手と知っていた人は決して多くないだろう。
同じ平泳ぎの選手とはいえ、自分とは比べるべくもない、彼が自らの心身に課し続けてきた、命が尽きるほどの負荷の大きさを想像すると胸が潰れそうだ。
ダーレ・オーエンを失った。訃報を受け、そう感じる。まだ26歳、才能に恵まれた選手が若くして亡くなるのは惜しい。

【欲求】★★レベル2
死を悼み、悲しみを分かち合うことは、人とつながりを持つことと思う。

2012-04-26

日本の伝統的なサーフィン(板子乗り編)Japanese Traditional surfing (Bellyboarding)

Hollow Wooden Surfboard 木のサーフボードを作る
日本の伝統的なボディサーフィン から続く

 日本では古くから波乗りをしていた。水泳技術としては、波乗りは今でいうボディサーフィンで、板子を補助に使っていた。
 ここで言う板子とは、日本の伝統的なベリーボードのこと。1960年代まで使われていた。全体としては長方形のシンプルなボードだった。
 スペックはこの通り。

・構造 ソリッド
・材料 杉
・寸法 長さ1'6"〜3'、幅12"、厚さ1"
・ノーズ スクエア
・テール スクエア
・デッキ フラット
・ボトム フラット
・レール スクエア
・ロッカー なし
・フィン なし

 ノーズに板子を握るための横長の穴が開けられたものがあった。

 大正13年(1924)に出版された「日本體育叢書 第十二編 水泳」(佐藤三郎著、目黒書店)には、板子乗りについて詳しく記述されている。
「(前略)濤乗りの練習には先づ板子を以て練習するがよい。
(中略)練習の初めには足先の着き得る浅瀬で試みるがよい。濤頂を待って濤が小さいときは濤頂が三尺位大きい時は一間程も後に來た時、底を蹴って跳び出し(第百三十三圖)體をなるべく平たく、短距離のクロールの姿勢になり、板子を持つたときは片手で支へて足はバタ足を細かく使ひ片手で片抜手を速く細かく使つて乗る。一旦乗つたら手は兩手とも板子にかけ、足はバタ足を使つて少しづつ濤から残されるのを防ぎながらいけば岸邊まで乗つて行ける。(第百三十四圖)(後略)」


 なお、板子の使用法については次のように述べられている。
「板子を使用する場合は主として次の三の場合である。
1、溺るるものを救ふとき又は遠泳などで非常に疲れた者を救ふときに持つて行くとき。
2、難船等の場合一身を救ふため。
3、始めて泳を學ぶとき。
(中略)縦に板を用ふる法
 百廿六圖のやうに板を縦に用ひて泳ぐのであるが。板は腰骨に當て體は板に乗りかゝるやうにし先手の肱から曲げて腕を斜に板の上に置き指は他方の縁を握り、足を扇り受け手を片抜手一段の要領で掻いて進む。此時板の先端は水面から四五寸出して水面を辷るやうな気持で泳ぐがよい。(後略)」


 板子は、今日のパドルボードやレスキューボードの役割を果たすことが認められていた。

 水泳やボディサーフィンは国や時代を超えた文化と言える。大正時代の日本で技術が体系化されて記録に残され、たとえ一時的に忘れられても容易に再現できるのは誇るべきことだ。津崎亥九生、佐藤三郎両氏は、自分の著作が100年後にインターネットで紹介されるとは思いもよらなかっただろう。大先輩に感謝する。

 以上、日本の中空木製サーフボード製作の先駆者、nobbywood surfboards 代表の大川信仁氏に敬意を表し、記した。
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12-05-01 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - -
 競泳の練習の補助具(今日の「ビート板」)として、日本の板子とアメリカの木製ボードが共存した時代があった。

 

 齋藤巍洋(1902-1944)が昭和初期に著した2冊の本の中に画像が残されている。
 左はアメリカ代表選手、ヘレン・マディソン Helene Madison(1913-1970)「新日本水泳術昭和9年(1934)、三省堂。右は日本代表選手、根上博(1912-1980)(「日本水泳読本」(昭和12年(1937)、三省堂)。
 マディソン選手は昭和7年(1932)のロサンゼルス五輪で3個の金メダルを獲得。根上選手は昭和11年(1936)のベルリン五輪で5位。

 マディソン選手の板は木製で、寸法は推定で長さ3'、幅20"。ベリーボードだろうか。形は同じ時代のサーフマットに似ている。構造はホロー(中空)と思われる。外観からレールの材料がデッキと違うことが分かる。浮力が大きく、テールに胸元を乗せて、さらに撮影のため頭と目線を上げてもまだ余裕がある。ファイバーグラスがない時代のため、表面はニスなどを塗装して防水した。板の幅は肩より広く、レールを両手で握ってゆったり肘を乗せている。
 ちなみに、最初の木製ホローのサーフボードが作られたのが1920年代後半、アメリカのトム・ブレイク Tom Blake(1902-1994)による。ブレイクは、競泳選手、ライフガード、サーファー、パドルボーダー、発明家、著述家と、水のつながりでいろいろやった人だった。

 根上選手は日本の伝統的なソリッドの板子だ。寸法は推定で長さ長さ3'、幅12"。ホローのボードほど浮力がないため、板が全体的に水没し、ノーズがわずかに水面から出ている。板に迎え角をつけて揚力を発生させることで浮力を補っている。板は肩幅より狭く、レールを握ると抵抗が大きくなるため、手は板の上に軽く置き、バランスを取って迎え角を調整している。鋭い引き波が勢いを感じさせる。

 齋藤巍洋は大正13年(1924)のパリ五輪100m背泳ぎで6位。大正14年(1925)の第1回日本選手権水泳競技大会100m自由形で優勝。昭和10年(1935)にブラジルに派遣されて指導に当たり、翌年のベルリン五輪に役員として参加した際のエピソードや写真は「日本水泳読本」に紹介されている。

12-05-08 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
 改めて板子乗りについて調べた。

 板子乗りが水泳技術の体系とは別のものとして行われていた例もある。文政4年(1821)、現在の山形県鶴岡市湯野浜で、付近に住む子どもが瀬のし(板子乗り)をしていたと記録されている。

 板子乗りが一般に親しまれるようになったのは、開国して日本に海水浴の習慣が持ち込まれたのち、明治中期頃からで、海水茶屋の板子の貸し出しが普及に寄与したようである。板子の中には、海水茶屋の馴染み客がスポンサーとして宣伝のために寄贈した商標入りのものもあった。

 日本でサーフィンが始まった1960年代以前、少なくとも山形県(鶴岡市)、新潟県、千葉県(いすみ市、勝浦市)、東京都(八丈島、新島)、神奈川県(三浦市、鎌倉市、藤沢市、茅ヶ崎市、大磯町)、静岡県(熱海市、下田市)、愛知県(田原市)、鳥取県、徳島県で板子乗りが行われていた。

増補 鎌倉の海」編集委員会の「増補 鎌倉の海」(鎌倉市海水浴場運営委員会、平成6年)に収録されている『座談会「愛されて100年 鎌倉海水浴場」』から、明治末〜大正初期には、由比ガ浜などでボディサーフィンや板子乗りが行われていたことが分かる。また俳人、高木晴子の「鎌倉育ち」によると、昭和初期の由比ガ浜で、女性や子どもが足が立つところで波を待ち、板子を補助に波乗りをしたという。

 内藤千代子(1893-1925)「生ひ立ちの記」(牧民社、大正3年(1914))の「觀喜に輝ける夏」(P.52)から、当時女性が板子乗りをしたことが分かる。

 幼女の友」第16巻第8号(幼女の友社、昭和7年(1932))に当時の海水浴の様子が紹介されており、板子が子どもが海水浴で遊ぶための浮き具として登場している。

 日本のサーフィンの父、坂田道(おさむ)氏(1937-2012)の話から、昭和30年代後半、湘南に板子乗りがいたことが分かる。

 板子乗りは、サーフィンの普及とともに1960年代に姿を消していった。高度経済成長期、主要な燃料が石炭から石油へ転換し、日本が本格的に工業国となった頃である。
 アメリカでも、木製ホローボードが、ポリウレタンフォームのコアをファイバーグラスで強化した板へと代わった。
 波乗りの板は、木からプラスチックになった。

 板子の寸法は幅30cm(1尺)、長さ45〜90cm前後(1尺5寸〜3尺)、厚さ2〜3cm(7分〜1寸)。
 水泳の練習用として、長さ6〜7尺、幅1尺3寸前後の大型の板子が推奨された例があった。

 大磯町郷土資料館に板子が収蔵されている。神奈川県立湘南海岸公園サーフビレッジには複製品が展示されている。

2012-04-22

日本の伝統的なボディサーフィン Japanese Traditional Surfing (Bodysurfing)


 ボディサーフィンの起源は分からない。1778年にイギリスのクック船長がタヒチかハワイで見たとか、紀元前2000年のハワイにそのような文化があったとか。歴史が記録される前から、いろいろなところでやっていたのだと思う。
 日本でも、水泳の一種として昔から行なわれていた。水術(日本の古流泳法)は江戸時代に発達したが、大正初期の水泳の教本には、泳ぐための基礎的な技術のほか、救助法や波乗りといった応用技術も含まれていた。その波乗りの完成形がボディサーフィンだった。
 波乗りは残念ながら途絶えてしまったが、記録から様子を知ることができる。

 大正3年(1914)に出版された「游泳法と其實際」(津崎亥九生著、敬文館)には、競泳、遠泳、飛び込み等と並んで「濤潜、濤乗(波潜り、波乗り)」が挙げられ、当時の技術について記されている。



 波潜りについてはこうある。
「(前略)濤頂の将さに崩れんとするときに、頭部を下げ兩輪伸を用いて濤を貫くのである。(以下略)」
 今でいうドルフィンスルー。兩輪伸とは、腕は今で言う平泳ぎ、脚は扇足(あおりあし)の動作を組み合わせた古流の泳法である。 


 また波乗りについてはこうある。
「濤乗には、浅瀬にてするものと、底深き所よりするのとの二種類がある。
 浅瀬にて乗るには、濤頂が凡一間位の後方に來たときに足尖にて水底を蹴つて足尖と濤頂に入れ兩臂を前方に伸ばして躄脚を急速に行ひ、十分に濤に乗り切れたる時に蹙足を止めて之を伸ばし、濤頂と共に進退するのである。(第八十三圖)然れども未熟の間は濤に捨てられて取り残さるゝ事があるから、其時には一方の臂を前方に伸ばし、他の臂にて小さき抜手を用ひて其前進を助くるがよい。
(中略)
 深き所にて游ぎ居るときに乗らんとするときには濤頂が體の後方三尺位の所に來りて體の後半部上揚するとき、體の前半部を少しく下げて両臂を伸し、兩脚を伸すや直ちに小さき蹙足を用ゐ、全く乗り終りたるときに蹙足を止めて脚を伸ばす。」
 蹙足はバタ足。片腕を前方に伸ばし、反対の腕でクロール(抜手)をする動作や波に乗った姿勢は、現在のボディサーフィンと同じ技術である。図に描かれた、腕と脚を伸ばした抵抗が少ない姿勢で波頂とともに前進する泳者は、安定すると同時に躍動感があり、当時の技術の高さを示している。
 中略した部分には板子を補助に用いる方法が記されているが、それについてはもう1冊の本から詳しく紹介しよう。
 続きは次の記事で。


12-05-13 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
 波乗りが水泳技術の体系とは別に始まり、発達した例もある。
 文政4年(1821)、現在の山形県鶴岡市湯野浜で、付近に住む子どもが瀬のし(板子乗り)をしていたと記録されている。その後、明治33年(1900)に板子を補助に用いないボディサーフィンの技術が確立したという。

波乗像@湯野浜

 向井宗之の「水泳術教範」(帝国尚武会、明治45年)に、当時江ノ島付近で行われていたボディサーフィンの様子が記されている。テイクオフの補助に板子を使うため、板子乗りとも言える。

向井宗之「水泳術教範」(帝国尚武会、明治45年)P.100

増補 鎌倉の海」編集委員会の「増補 鎌倉の海」(鎌倉市海水浴場運営委員会、平成6年)に収録されている『座談会「愛されて100年 鎌倉海水浴場」』から、明治末〜大正初期には、由比ガ浜などでボディサーフィンが行われていたことが分かる。純然たる鎌倉生まれの者は、波乗りに板は使わなかったという。